2015年07月09日
中森明菜のセルフプロデュースについて
「中森明菜のセルフプロデュースについて」などと題をつけてしまったのですが、後悔しています。彼女にその力があったということは広く認められていますが、その対象や範囲がどの程度のものであったのかについては、事務所関係者でなければ正確には分からないでしょう。私はそうでないので、これについて論じる材料を持っていないのです。
「対象」というのはヘア、メイク、衣装、振り付け、踊り、歌唱法、表情や目線の作り方、レコーディングやライブでの選曲、等が考えられます。広義ではバックダンサーやコーラス、編曲などもあるでしょう。シンガーソングライターなら、ブレーク前後では大抵は全部一人でやるしかないですね。
普通「アイドル」はプロデュースは業界のプロに任せ、与えられたものを必死でこなすしかありません。自分でどうこうしようなんていう余裕はないのです。これが正しいやり方です。
中森明菜も「アイドル」として売り出したので、デビュー時は概ね与えられたものを受け入れています。ただ、幾つかのもので自分の意見を押し通しています。次の事柄が有名ですね。
(1)与えられた芸名「森アスナ」を拒否して本名で押し通した。
賞を取った後でも、「私はこの父母から貰った名前で頑張っていきたいと思います。」と挨拶しています。
(2)デビュー曲を決めるに先立って、母校で構内放送してアンケートを取った。
こちらの方は結局はプロデューサーの決定に従うことになりました。しかし、こんな方法で曲を決めようとした新人は歌謡史のなかでも他にはいないでしょう。
ヘアと衣装は当初はやはり与えられたものを受け入れていましたが、地方プロモーションで頑張って聖子カットで売り出したデビュー曲は売れず、納得の行かないツッパリ路線まで強要された結果徐々に自分の主張を出していきます。「少女A」の振りは自分で考えました。確かに素人っぽいバタバタした振りでしたが、これもステージを重ねていく度にモノになって行き、タイトルも取り、ベストテンにも入りました。
TVのライブ放送での目線の作り方、司会者との掛け合いは完全に自分で考えてやってます。しゃべりの方はそのまま「素」でやっているので、ある意味粗雑だし、素人臭いのですが、それが画一化されたアイドルとは違っていて新鮮な感じがあります。
中学生のころからご自慢だったヘアはロングヘアをカールさせて下げるか、ポニーテールにするかで、楽屋にホットカーラーを持ち込んで自分でカールを掛けていました。メイクはプロに任せていましたが、曲に合わせてどう変えるかについては自分で決めていたのではないかと思います。衣装は当初は周囲と意見が合わず、出演拒否直前まで行ったこともありますので、逆に最初は意見が反映されておらず、自分でプロデュースしてはいなかったということでしょう。
これらはヒットを重ねていくに従い、どんどん自分で決める割合が増えていき、レコード大賞を取る頃には殆ど全て、彼女の意向が反映されていたと言っていいでしょう。
自分を思うがままに演出するのは誰にでも許されることではありません。だから彼女は他人よりもスターとしての実感を満喫できていたと言えます。ただ、それが正しいことがどうかというのは別問題で、客観的にみれば失敗というしかない場合も少なくありません。90年代以降は周囲のプロを巧く使うという方向に変わっています。
彼女のセルフプロデュースというのは、結局いかに自分を見せるのかというプロ意識の現われであり、その結果周囲の大人との軋轢を生み、我儘、ツッパリ、傲慢等という陰口を叩かれることになりました。そしてその根底には「ファンを飽きさせてはいけない、飽きられないためにはどうするのか?」という強迫観念がありました。確かに多くのアイドルは飽きられて1~2年で消えていきましたが、彼女は松田聖子と並んで長い間歌謡界に君臨していました。実際には小田洋雄、島田雄三といったプロのプロデューサー、ディレクターがいたのですが、懐の広い人達でうまく彼女を泳がせていたのだと思います。ただ、ビジネスとしてのプロであり、生き方まで面倒見ていた分けではありません。そういう意味では彼女はお釈迦様のいないまま、金斗雲に乗って歌謡界を飛び回り、あちらこちらにぶつかってお騒がせをしていた「孫悟空」のようにも思えます。
Posted by Sophiee Winkler at 22:27│Comments(0)
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